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シンプルに考えない

何かに思い悩んでいたとき、あるいは、何かアイデアを練っているとき、あなたの知り合いはあなたにこうアドバイスする。"もっとシンプルに考えれば?”。

私はこういった発言を聞くたびに違和感を覚える。

私はこのアドバイスを投げかける人の考えが間違っているとは思わない。いわゆる"成功した人"から"なんとなくどこかで聞きかじったような人"までも、色々な人がこの文言を使っているのを聞いたことがあるから、使用者自体には普遍性はないと思われる。

しかしながら、"シンプルに考える"ことにはやはり若干懐疑的なのである。

おそらく多くの場合、”シンプルに考える”ことは、”短絡的に考える”こととイコールになっている、あるいは、そう解釈しているケースが多いように思えるのだ。いうまでもなく、シンプル=短絡的ではない。シンプルは、おそらく、無駄がないことが一番近い表現になる気がするが、それでも、いずれにせよ、短絡的の場合と同じように解釈されることになるだろう。

私はここで、言葉狩りしたいわけではない。おそらく、私が前提として持っている考えが違うことで、そういった認識の齟齬が生まれるのだと思っている。

それは何か。つまり、私は世の中が自分が想定しているよりも複雑に出来ている、という考えを持っている。

 

私は、世の中には、複合的に様々な要素が絡み合っていて、おおよそ何かをどんなに測定しようとも計り知れない部分が大きく、また、それぞれの絡み合った要素が互いに影響しあっていると思っている。

 

別の視点で表現しよう。ある人が、シンプルに考えろ、と助言してくれたとする。明快かつ画期的なアイデアを披露してくれる人がいて、それが一見ロジックも通っていて、現にその人が何らかの形で結果を出していて、アイデア自体が非常に示唆的だったとしても、シンプルに考えることとは何ら因果関係はないように私には思えるのだ。

 

アイデアよりアクションに意義があるということを言いたいのではなく、シンプルに考えること自体は、恐らく結果に寄与していないような気がしている。

 

また、仮に成功した人がいくらシンプルに考えていたとしても、それこそ、複合的な経験論を明解に理解しうる形で伝えているだけであって、"シンプルに考えた結果、何かがプラスに働く"わけではない。

 

順序が前後してしまったが、私が考えているシンプルに考えろ、という言葉を用いるケースについてと、それに対する所感に移りたい。

 

例えば、ある成功している事業家が大衆に向かって、"シンプルに考えてください。事業っていうのは〜"と彼または彼女なりの真理を説いたとする。

 

それが本当に真理かどうかという議論は置いておいて、それを聞いた人は、”シンプルに考えることは大事だ”と思う。まして、大衆メディアも"A氏曰く、シンプルに考えることは重要だ!"と謳い、ここぞとばかりに現代の若い事業家をこき下ろす。そして、書店には、"シンプルに考えよう”といったタイトルの書籍がずらっと並ぶ。(ここでは特定の書籍を指していないので、あしからず。)

 

…話が大分ずれてしまった。(が、イメージ出来た人も少なくないはずだ。)

 

成功者が必ずしも正しいわけはないが、彼らは普通の人が取らなかったリスクをとり、いろんな危機に直面することで得た、いわば結果論的な真理を伝えているだけであって、その考えをいかに咀嚼しようとしても追いつけるわけがないし、その思考プロセスも真似出来ない。私たちがシンプルに考えたと思っても、それは、フリであって、極めて短絡的なアイデアになること請け合いだ。

 

また、穿った見方をすれば、その成功者も、今後、未知な状況に直面したとき、おそらくシンプルな思考で立ち向かうはずはないと思う。”これまでやってきた通り”頭を抱えながら複雑に考えて意思決定をするはずだ。

 

それと同様に、私たちがやるべきは、”シンプルに考えよう”本を読むのではなく、出来るだけ複雑に、いろんな要因を考慮して、想像を張り巡らせること、つまりシンプルに考えないことが重要だと思う。

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