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"喜"を強調する

喜怒哀楽が激しいと聞くと情緒不安定な人という印象を受ける。
もし、友人が私の上司は喜怒哀楽が激しいんですよと言っているのを聞くと、お気の毒にと思うだろう。

当然、周りに常に怒号を振りまいて委縮させている人はもってのほかだけれども、
喜怒哀楽の表現が大きい人はその分感情が分かりやすいから気を付けさえすればコミュニケーションは単純であるとさえ思う。

私の場合は、特に職場では喜びは強めに強調するようにしている。
これはお世辞を言いまくるということではなく、会社として何かプラスのことがあった際は、周りにもわかるように喜ぶ。
それに携わった人を祝福するし、実際に褒める。少し過剰なくらい称賛する。

個人的に、これは非常に重要だと思っているし、あえて嫌な言い方をすると、とてもコスパの高いコミュニケーション手段だと思う。
当然、嫌々やっているわけではなく、そもそも私は人よりも喜びやすい単純な性格を備えている部分もあるから、無理くり作り出すわけではなく、もともとある感情を大きく表現するイメージだ。

ここで、また別の話をしたい。
数週間前ぐらいにある同僚と二人で食事をしていて、なんらかのモチベーションに関する話をしていた。
私もその同僚も無駄なことがあまり好きではなく、感情派というより理屈派だけれども、お互い誰と働くかは非常に大事だという点は一致している。
そこで、やっぱり自分のために何かに注力することにはやはり限界があるということを話した。
その時は、何かを頑張るときに、周りの人にも喜んでもらうようなことじゃないと本気になれないし、熱がこもらないという結論に至った。

おそらく、それは自分たちだけではなく、多くの人にとってもそうだと思う。
自分のために努力を出来るのは出来るが、周りの人が喜んでもらえたらなおさらいい。

身近にいる何らかの形で成功してきた人もどんなスーパーマンであっても、一人の力で大きなことを乗り越えられた人はいない。
ひとりで出来ることは当然ながら限られている。

先ほどの話でいうと、自分が喜んでいるということを相手にわからせてあげることは、その人のモチベーションに予想以上に大きく働くと信じている。

出来るだけ自分というのは相手にとって単純な存在でいたほうが何かにつけても得だろうと思う。
その意味でいうと、どういうことで喜び、楽しみ、悲しみ、怒るのかということが他人から見てわかりやすいという意味での喜怒哀楽が激しいというのは周りにとってそんなに楽なことはないのではないか、とふと思った。

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