最近、ちょっとセンシティブかつ湿ったテーマが続いたので、軌道修正というわけではないが、一旦テーマを思考寄りに戻す。
自分の主張の正しさを証明するために、客観的データは必要かというテーマについて。
その問いに関しては、"必ずしも必要ではない"が正しいだろう。
客観的データで意思決定や仮説を立証するのは、もはや現代において一般的だけど、そのようなアプローチというのは、歴史がまだまだ浅い。
例えば、医学は、EBMなどが頻繁に話題が上がるように、最も確からしいデータによって意思決定がなされている分野のひとつだ。
臨床実験に時間をかけるようにデータを積み上げる期間も非常にスパンが長く、意思決定も慎重だ。それでも、有名な話にもあるように、19世紀に戦時下の野戦病院で看護に従事していたナイチンゲールが膨大なデータを用いて、 傷病者の症状の原因を明らかにしたことは、当時の周りの人間(役人など)にとっては眉唾ものだったようだ。
また、仮に、もっとさかのぼって、古代ギリシャでは、データなんて考えはほとんどなかっただろう。アリストテレスが議論の中で、"諸君、私の主張を裏付けるこのデータを見てほしい"と言い出すのをあまり想定出来ない。(と思ったけど、普通にありえるかもしれないな。さすがに統計的アプローチはないだろうけど。)
ただ、そのデータに基づくアプローチがなかったからといって、彼らの主張の妥当性が損なわれるわけではないだろう。
最も、後付けでデータを引っ張り出してきて、彼らの主張を強めることなどは出来るだろうが。
ここで、察しがいい方のために、一旦、お断りしておくと、私は"データドリブン反対!"や"Fuck you data!!"などは言うつもりはない。
私はむしろ、"データドリブン"はともかく、あらゆる組織や施策や意見において、ベストプラクティスを歓迎しているので、そのベストプラクティスは、多くの確からしいデータや実証(歴史)があるものが多いから、それも広い意味でのデータドリブンともいえるだろう。
ただ、やっぱり、データは、必ずしも正確な主張を行うためには必須ではない。
私はそもそも自分の立てた仮説に関して、自分で色々反証出来そうな意見を考えたりと、自分の頭の中で議論をするのが好きだし、むしろ言葉だけのロジックだけで説明し切ったほうが良いケースもあると考えている。
データによる意思決定の根本の前提を、私なりに考えると、"データを積み上げて(集めて)、そのデータから抽出した最適な手法を選び、従来の手法を超える効果を生み出す"だと思う。
データを何らかの形でマネタイズする等の方法は一旦除外すれば、この流れの目的は言わずもがな、"従来の手法を超える効果を生み出す"である。
だから、極端な話、この目的を達成しない限り、それまでのプロセスは埋没費用(サンクコスト)になってしまう。だから、"従来の手法を超える効果を生み出す"というプロセスが達成されるまでは、 データ分析のスペシャリストが考えた最強の手法も、その辺のクソガキ(私など)が考えた最強の手法は同じである。
...と、ここまで、ちょっと書いたのだけれど、"データドリブン反対"構文になりそうなので、ちょっと軸をずらそう。
私は、最初にも書いた通り、データドリブンは"ベストプラクティス"という意味で、便利だと思うし、私は好きである。
だから、多くの場面で利用するだろうけれども、やっぱり言葉だけで組み立てた論理も、矛盾や抜け漏れをカバー出来ていれば非常に強固という意味では手法としては負けていない。
ううむ。ここまで書いたものの、あまりシャープな洞察にならなかった。
いずれにせよ、自分の言葉で論理を極限まで固めていくことにこだわり続けたいと思う。 Tweet© 2020 ZUUHE