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神聖なる営業

営業は組織において良くも悪くも神聖なる領域である。

一部の企業等は除いて、営業が顧客の生の情報を一番持っているし、会社の命運が彼らにかかっている。

どんなに素晴らしい施策があったとしても、営業が動かなければ顧客を獲得することは出来ない。
逆に、施策を考えるためにも、営業を通して顧客の課題を知る必要がある。
そして、どんなプロセスをふまえても最終的に営業が売れば、オールオッケーなのだ。営業は神聖なのである。

神聖といえど、SalesforceのThe Modelに代表されるように営業を仕組み化することも出来る。
営業フローを設計して、彼らのやるべきことを明確化し、可視化すればいいのだ。一方で、例えば、売れる営業マンというのは客観的にどれだけ言語化しようとしても難しい。その部分は結局、属人的なスキルに依存するため仕組み化出来ない。神聖なる領域のままだ。

でも、営業に限らず、組織を成立させるための一つのポイントが、いかに分業し、仕組み化することが出来るか、であるとすれば、神聖な部分というのは出来るだけないほうがいい。

神聖なる営業の悪い部分としては、以下のケースが挙げられるだろう。
例えば、長年の営業経験のある営業が、"顧客は○○を気にしていることが多いから、○○に対するソリューションを提供できることを売りにしよう"と言う。
ただし、その発案は、その営業の漠然としたイメージに過ぎず、仮に間違っていないとしても正確に課題を言語化出来ていないことがある。
しかし、その神聖なる営業の発案には、誰も干渉できない。顧客の声に基づいている"神聖なもの"からだ。
とはいえ、正確に言語化されない漠然とした発案は、他の部署の人間からはなおさらイメージ出来ず、より漠然な施策として実行される。

結果として、わかりづらい自己満足なプロモーションが行われてしまう。(悲しいことに、このとき責任を問われるのはマーケティングチームなのだ。)

あくまでも、たとえ話であるが、あながちあり得ない話ではなく、多くの企業でこのようなことが起こりうる。特に、長年の営業経験のある声の大きい営業マンがいるとこうなりがちだ。
顧客の声を実際に聞いているからこそ、営業は最も大事な役割だし、"社内の支点"のような存在になる。それでも、鶴の一声ならぬ神の一声に振り回される事態になっては最悪だ。顧客の要望を的確に把握し、最もふさわしい方法で対応するという原則を見失わないようにしたい。

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