批評家に価値はなく、実践家のみが評価されるべきだと常々思う。
私がこのブログで色々書いているけれども、その文章や批評自体に価値はまったくない。
批評が「毒」になることはあれども、「金」("かね"ではなく、価値あるものとしての"きん")になることはない。
当然、世の中すべての人が現実のあらゆる事象に満足し、同意しているはずはない。
それが、貧富、人種、出自、容姿、知的/運動能力、学歴、身体、環境などの指標で比べられる例が最もわかりやすいが、これ以外にも、細かいセグメント分けると、とてつもない量の複合的な評価指標が存在する。
それらの指標を受け入れながら、生きていく必要がある。
当人の、好みあるいは、気にするかどうかはともかく、現実的にそれらの指標存在するし、それによって評価される。
例を挙げれば、
・いくら職業に貴賤はないとされていても、職業・ステータスによって、人は評価されてしまう。
・どんなに容姿をもって人を判別することが浅ましくとも、容姿端麗、身体も優れている人は、(無意識/潜在的に)他者に好印象を与える可能性が高い。
これらの点は、いわゆるハロー効果的なものだけれど、その呼び名はどうでもよくて、ここで強調したいのは、やはり現実的にはそういう指標は存在してしまうことだ。バイアスを一切持たず、色眼鏡なしに世界を見渡せる人は存在しない。
そして、ある指標が間違っていると思っても、それを根本的にハックするためには、"その評価指標が、明確ではなくても確かに存在する"ということを一旦受け入れなければならない。
まずその現実に適応していく必要がある。
その環境で実績を出し、多少なりとも自分に共感してくれる人間を増やしながら、影響力のある人間になってやっとハックする準備が出来るのだ。
その影響力を手に入れるまでには、地道でつまらない努力を続ける必要があり、とてつもない時間がかかる。
それでも、そうして手に入れた影響力は、間違いなく、指標を変えるための"現実的な手段"である。
このような現実的な手段を手に入れようと努力するのが、実践家だと私は信じている。非常にタフな道だけれども、この道しかない。
一方で、批評家は、この道を辿ることをすっ飛ばして、"批評"を持って、影響力を得て、世の中を変えようとする。
皮肉にも、大衆メディア(その他SNSなども含む)でも称賛されるのは、そのような批評家である。人々に分かりやすく、痛快なことを言える人々が、"ヒーロー"となってしまう。
でも、本当の力を持つためには、現実の中で一歩一歩積み上げるしかない。
なぜ、現状を変えるのが、それほどまでに難しいのか。
"人の価値は等しく尊いから"だ。
人の価値は等しく尊いからこそ、批評で現実が変わるわけはない。
他者の根本的な価値観や行動を、批評をもって変えようとするのはおこがましい。
どんなに、痛快で、共感を得やすい言葉を投げかけても、他者はそう変わらない。
積み上げた実績と、行動に共感してくれる仲間がいる人間が起こすアクションだけが現実を変える。
現実を受け入れて、順応する。そこで、どれだけの価値を生めるか、どれだけの仲間に共感してもらえるかだけが重要なのだ。
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