私は経済小説が好きで、よく読んでいる。
それほどたくさん読んでいるわけではないが、黒木亮、幸田 真音、三枝匡、梶山三郎、橘玲、マイケルルイスなど好きな経済作家がいる。経済小説という枠に限らず、彼の作品はなぜこんなに面白いのだろう、と最近考えていたのだが、今回はそれがテーマだ。
私なりに最近考えたひとつのポイントを先に話すと、彼は"悪者を単なる馬鹿として書かない"ところだろうと思う。
経済小説は勧善懲悪的なストーリーになることが多い。簡単のために、悪者と書いたが、文字通りの悪者だけではなく、攻略するべき相手・交渉するべき相手もあてはまる。最近話題の半沢直樹なども典型的な勧善懲悪型のストーリーだろう。(ちらっとあらすじを知っているだけで、本編を見たことがないため、間違っていたら申し訳ない。)
創作物において、そのような攻略するべき相手や、交渉相手が、"下品で嫌なやつ"であることが少なくない。例えば、主人公に対し、常に高圧的で見下した態度をとり、主人公がそれに辟易しながら、根回しを行い、その相手個人に対して、やや過剰なぐらいのリターンをもたらす条件で、主人公側の要求をのませる。その時、相手は、恩恵を受けたのに約束を反故にしたり、交渉成立した場合もぬか喜びしたり、主人公に対して引き続き興味を持たず、自身の下品さにも気づかず呑気に生きる、というようなイメージだ。
個人的に、そういう描写に特別怒りを抱くほどではないが、世の中そんなに単純じゃないだろう、という違和感を覚えることがある。もちろん、創作物として、善か悪かの二元論で対立させたほうが分かりやすいのは理解できる。しかし、やはり悪者はいつだって馬鹿で単純で、それを正義が成敗するという流れにはいささか疑問を感じてしまう。
その点でいえば、黒木亮の作品は、その悪者にも、社内における彼なりの事情があったり、ガサツではあるが少し愛嬌があったり、ある場面で嫌な奴であっても、後日談でフォローがあったりする。私はそういう描写があると、良いなと思うし、現実も実際はこんな感じだよなと思う。
そんな点を踏まえると、例えば、ある政策・施策に対して、"なぜ〇〇をしないのか?少し考えたら、○○が正解に決まっているだろう!"というような評論があるとしよう。その評論自体にそれなりのロジックがあったとしても、その評論家の中では、その政策を取り仕切る政府や省庁などの主体は、悪者で、馬鹿で、単純であると思ってしまっているのではないかということだ。(たちが悪いと、自分が正義だと思ってしまっていることがある。)
その姿勢は、言うまでもなくあまり好ましくない。直接的ではないが、やや差別的であるとさえ思う。これは、当然政府や省庁に対する話だけではなく、身近な嫌な奴であっても、少なくとも、この人にもその人なりのロジックがあるんだろうな、という余裕は常に持っておかなければならない。馴れ合ったり、無理に仲良くしたりする必要はないが、相手を間抜けな悪者とするのは、望ましくない。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い気持ちは十分に理解できるが、せっかく評価するなら、嫌な奴だけれども、馬鹿で単純ではない、という前提に立つほうがいいだろうと思う。
ここまで書いて、小学校の校長先生の訓話ようなめちゃくちゃ当たり前の結論になってしまったなと思う。50本目のブログでした。
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