自分が何者でもない時には、自分の発言力を担保するものは存在しないから、筋の通った発言をして相手に納得してもらうしかない。(担保あっても、そうあるべきだが。)
それっぽいことを言って、相手の想像力に任せるようなことは望ましいとはいえない。そのようなコミュニケーションに慣れてしまっている人の発言には、つまりどういうことですか?という疑問を挟む余地すらないほど気の毒なものがある。特に、日本語はただでさえハイテクスト文化で、筋が通っていなくても相手が言わんとしているニュアンスを読み取れてしまうから、出来る限り発言に対して、自己検証は必要である。
昔、職場で上司に自分の考えを伝えるときに、筋の通った発言をしていないととてつもなく詰められることが多々あった。それは当然のことだったし、何かしら考えを伝えるときは常に緊張感を持って丁寧に発言することを心掛けなければならなかった。
自分の発言を聞く価値がないと思われないように、色々論拠を並べても、バシッと粗を指摘される日々だったのだが、ある日、「それは、その通りだと思うよ。」と言われたことがあった。
また、別の場面でも、具体的には覚えていないが、ある施策のアテが外れて困っていた時に、自分の考えを伝えると、「その通りだね。」と言われたこともあった。
そして、もっと記憶を遡ると同じような経験がもうひとつあった。それは私が小学生の時だ。
小学5年生ぐらいのときに、運動会の感想をクラスで出し合っていくみたいなホームルームがあった。そのホームルームでは、私はみんなの前にたって、ひとりずつ感想を聞いて、ノートに書いていくみたいな役割をしていた。
そして、あるクラスメイトに感想を聞いたときに、その子は、「綱引きをしたときに、手が痛かったから、楽しかった。」という感想を言った。
それに対して、私は「手が痛かったから、ではなくて、痛かったけど、かな?」と言った。論理に対する訂正というよりも、厳密には助詞の使い方に対する訂正だ。
顔を上げて、クラスを見渡すと、多くのクラスメイトがポカーンとした顔で私を見ていた。おそらく、クラスメイト達は、分かっていても、わざわざ訂正するほどではない、と思っていたのかもしれないし、あまりちゃんと聞いていなかっただけかもしれない。いずれにせよ、それに対して、特に何のリアクションもなかった。
私はちょっと気まずい空気になったなと思って、すぐに別のクラスメイトに感想を聞こうとした。すると、その時のクラスの担任の教師が「今のは、〇〇(私の名前)が正しいな。」と一言ぽつりと言った。
この時、その発言自体よりも意外だったことがある。この担任の教師は、当時の私を非常に嫌っており(生意気だったからだと思う)、何かと体罰や嫌味をぶつけてくる教師だったので、その教師が、自分の発言を擁護したという事実に非常に驚いた。
その時、特に喜びはなかったものの、頭の中では、"自分のことが嫌いな人でも、正しいことは正しいと認識するんだな"と強く感じた。(この辺が生意気だったから嫌われていたのだろう。)
些細な出来事なのだけれど、大人になった今でも明確に覚えているということは、自分の発言に意識を向けるための原体験の一つになっているのだろうと思う。
もちろん、上記に挙げたような出来事ベースだけではなく、発言に対する意識は、親のしつけにも依存するだろう。
ちなみに、私の母は特に教育ママというほど教育熱心なわけではなかったが、子供のころ、母から「主語は何?いつ?誰が?」と頻繁に叱られていたのを覚えている。単語が抜けた発言をするとすぐ怒られた。冒頭に書いたように、むやみやたらと母の想像力に甘えた発言をしてはいけないということだと思う。
いわゆる5W1Hとまではいかないが、主語・述語は非常に厳密にチェックされていた。当時は、少々手厳しく、辛かったのだが、今振り返ると、良かったなと思う。
誰が聞いてようが、自分の発言を律するというのは大事だな、と昔を思い出しながら書きました。
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