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文字通り理解する

日本語の最も良いところ、同時に最も弱点となりうるところは"曖昧さ"だろう。

論理・構造を表すにはあまり向いていない一方で、感情や雰囲気をイメージとして共有するのに日本語は非常に向いている。私自身も、頭の中に浮かぶ映像を伝えたり、相手の言葉を映像として受け取るようなコミュケーションをしているように思う。

曖昧なコミュケーションの例を挙げよう。学生の頃、法学を専攻している友人に、なんで法学を専攻してるの?と聞いた時に、世の中は法律で成りたっているからだ。だから、法律を学べば世の中の仕組みを理解出来ると思ったから、と言っていた。

この考えは因果関係がやや怪しいのと、それぞれの命題の前提も怪しい。ただ、日本語だと、ましてや口語だと、ぱっと聞いただけでは、あまり問題があるようには思えない。検証しようとすれば、いくらでも論理の弱さを指摘出来るが、さすがに私もわざわざロジックを指摘するような野暮な事はしなかったし、何気ない会話だから今でも特に問題とは思わない。
(念のために断っておくと、彼は私のかなり仲の良い友人の一人で、素晴らしい人格を持つナイスガイである。)

曖昧なコミュケーションの例として取り上げたが、日本語だとこのような会話が結構多いのではないだろうか?私もこのようなニュアンスだけの会話をすることはある。

日本語は曖昧だから、日本人はロジカルシンキングや、問題解決能力が弱い、というような指摘をされることはあるが、別に議論の場では、その場に適したコミュケーションを取れば良いだけで、わざわざ日本語の弱点を取り上げて、そこに託ける必然性はないとは個人的に思う。

日本語の曖昧さはマイナスに捉えられる事が多いが、私自身、先に書いたように"日本語らしいコミュケーション"を当然するし、変な言い方だが、日本語の恩恵を受けていることは多々あるといえる。

最近、私が友人と話した時に気付いたことの話だ。先の友人と最近久々に会った。あまり詳細は覚えていないから、例え話のような感じで読んで欲しい。

もし独立したらどうするか?という話になった

私は、もし独立したら、上場を目指すような成長を見込むビジネスにとても興味がある。あと、何よりも、情熱を共有出来て、目標を達成して振り返った時に喜び合えるような良い仲間が欲しい、という趣旨の話をした。

その時、彼が、まぁ、たしかに、ビジネスは売上だけではないからね。どういう人がいいの?というレスポンスをした。

その返答を聞いて、私はなんとなくあれ?という感覚があった。ただその後に、あぁ、でも彼のレスポンスも間違ってないな、と思い直した。

この辺りはまさにニュアンスの問題なので、文章として伝えるのは非常に難しい話なのだけれど、この話で言えば、ビジネスで売上はとても重要で、重視しないといけないというニュアンスがちゃんと伝わらなかった、ということと、どういう人が良いか、というのはこの話であまり重要ではなく、抽象的なのは承知の上で、とりあえず良い仲間が欲しいことを強調したかったのだ。

私の発言のニュアンスの正しさはともかく、聞き手の彼は単純に文字通り解釈した上で、話を展開しようとしたのだと思う。しつこいようだが、彼の理解力が低いという話ではない、彼はむしろ正しい。

この会話だけではなく、私はたまにこのような場面に遭遇することがある。

冒頭に書いた通り、自分が伝える時も、他人から話を聞くときも、イメージとしてざっくりと共有を受けて、そのイメージを自分の頭で再現して共感する。そのため、認識の齟齬が生じる可能性は当然ある。コミュケーション方法の違いだ。

私のブログは、色んな断りを入れながら文章を書くことが多い。(あくまでも例え話という文言や、〜〜はともかく、といった文言だ。)

それに気付いている人も多いと思う。冗長で読みにくいかもしれないし、そう思っていたなら大変申し訳ないが、私なりの意図としては、出来るだけ自分のイメージを正確に伝えたいのだ。また、文字通りの理解をされてしまうと都合が悪いときにそうなってしまう。

曖昧に伝えるのはそう悪いことばかりではない。読書をしているときに、本に書いている重要なことに焦点を当てるだけでなく、読書体験や読書している中での思考、もっと言えば、読書している場所の香りなどにも価値を見出すようなイメージだ。

読書をした際に、"重要な箇所をまとめて、いつでも参照出来るようにしておくこと"と、"全編を通して再読すること"の違いはなんだろう。

たとえ、重要だと思える箇所が再読してひとつも変わっていなかったとても、その体験の中で、言語化出来ないまでも、自分の頭に浮かぶイメージは異なるだろう。
他にも、読書要約サービスなどで抽出されたポイントが、実際に読んだときに重要だと思った部分と全く同じだとしても、自分の思考のようなものに与える影響は別物だろうと思う。

そうなると、曖昧さに価値が出てくる。ゆとりや余裕という隙間のイメージではなく、全体的に抽象的で解像度が低い状態に価値が出てくるのだ。
曖昧な言い方だが、曖昧なまま放っておく、曖昧なまま伝える、曖昧なまま聞くことは、時に重要なのだ。

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