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思考の発散の場

しばらく、更新が途絶えてしまいました。

少し強めの怪我をしてしまい体調が完全ではなかった事、その他トラブルがあり、あまりじっくり思考出来る状態ではなかったため、ブログを書けなかった。

でも、あまり思考が出来なかったことで、どうすれば元の状態に戻れるかを試行錯誤したり、内省したりする時間を多く取れた。というか、結果的にそうなった。

最近、作品や人の言葉を引用するなどして、ブログを書くことが多くなっているが、今回もそうだ。私はお気に入りの本を読みながら、ぼんやりと何かを思い出したり、自分の考えを整理したりすることが多いから、ブログを書く時にもそれらを持ち出してしまう。

今回は、私が好きな小説のうちの一つであるカズオ・イシグロの"日の名残り"を再読して考えたことについて。この作品は、なんらかの言葉で単純に形容するのが勿体無く思えるぐらい美しく、再読して改めて深く感動していた。

作品の内容詳細自体にはいつも通り触れないが、簡単に言うと、主人公は第二次世界大戦前ぐらいのイギリスの貴族の屋敷に仕える執事で、その執事が一人称視点で語る形式の小説である。

真面目で上品な主人公が、良き執事とは何かという職業観や、屋敷での来客の対応におけるオペレーションのあるべき姿や、同僚女中とのやり取りおける繊細な心情の移り変わりなどが語られている。

主人公は、自分なりの堅い信条があり、それをもとに自分の振舞いを規定している。そして、その主人公は思索に耽って検証するのが好きだ。

彼は自身の思考を、屋敷の女中や、他の屋敷に雇われている執事と議論するのが好きであったが、同僚の退職や雇い主の状況の変化などでそのような機会が減少し、思い悩むことが増えたという描写がある。

つまりは、思考の発散をする機会がなくなってしまったのだ。

思考を発散する場がなくなると、何かと思い悩む事が多くなるという感覚はとても共感出来るものがあった。

私の場合も、友人と食事をする機会があるとして、比較的お互いの価値観が混じり合うような真面目な話を好む。

それは、例えばこのブログに書き記しているような複雑なものでないにしろ、それぞれの価値観を伝えるようなものがいい(当然、専ら自分の話だけを展開するようなものであってはいけない。)

けれども、私の経験上、あまりこういう話題を好む人は多くないし、あえて俗っぽい言い方をすれば、意識が高い面倒なヤツとして掃き捨てられてしまう。意識高いやつかどうかは置いといて、面倒なやつであることは間違っていないと思う。多かれ少なかれある程度、ストレスが掛かるような話であるからだ。

というわけで、当然だと思われるが、これまで友人との会話や仕事でのやりとりなど、あまり思考の発散の場とはなり得ないことが多い。気の置けない友人とたわいの無い話をする場は非常に楽しいけれど、なんとなく物足りなさを感じてしまう。例えば、話をしていて、少し議論に寄った話になりそうでも、"何事もバランスだよね"という結論に落ちついてしまい残念に思うことが多い。

自虐しているわけではないが事実として、多くの人にとって、私は話をしていて面白くない人だろうと思うし、言い回しや言葉遣いもいちいち婉曲的で理屈っぽいと思われているかもしれない。

私が思考を発散する場としては、このブログや、日記など自分との対話が多い。自分との対話だからこそ思考を発散出来ている部分もある。ただ、我儘になってしまうが、欲を言えば、他人と対話する場があると嬉しい。

最近、改めて近しい友人とお互いの考えを話す機会や、職場でも思考が必要な打ち合わせがいくつかあり、思考を発散する場が少し増えた。

自分の思考は自分の中で発散させて完結するのが望ましい、と考えてはいたけれども、やはりそういう機会があると、その時間は自分にとって価値があるものだと思えるし、知的好奇心が満たされる。

思考の発散の場は与えられるものではないし、簡単に見つかるものでもない。おそらく、この人と議論してみたいと思えるような相応しい人間になれば、自ずとその機会は湧いてくるのだろう。

具体的な方針は思い浮かばないが、職業人としての専門性を高めるなどして、意味のある実績を作る事で、ある程度抽象度の高い議論が出来る者として信頼されるようなイメージだろうか。(職業人としての実績と、抽象度が高い議論が出来る能力には相関があるわけではないとは思われるが。) いずれにせよ、自分の価値を高めなければいけないなと思う。

最後に、烏滸がましく恐縮だけれども、読んでくれる人にとって、思考の発散の場の一つになりうるようなブログを書いていきたいと思っています。

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