"世界を幸せにする方法"
なんてタイトルなんだ。
宗教を開いて教祖になった、あるいは激しめのカルト宗教にハマったやつのどっちかが言い出す話だ。
こいつ、小難しく、回りくどいブログばかり書いていると思ったら、ついに宗教を開祖し出したのか?
冗談はさておき、私はわりと世界中の人が幸せになるにはどうすればいいのかな、と考えたりする。それは、思春期に多くの人がなんで生きているのだろうと考えるようなものと同じだ。というか、ほぼそれである。
間違いなく、宗教はその有力な一手だろう。キリスト教だろうが、イスラム教だろうが、カルト教だろうが全員が同じ宗教を信じていれば、そうだ。
世界が幸せになるために"自分がやれること"はなんだろう。
私の意見では、色々思考過程は省略して、"自分が関わっている人を愛して/愛されること"だと結論づけている。
別に珍しい考え方ではなく、同じような考えを持つ人も多いだろう。
すべての関係者とは流石に難しい(私も出来ない)けど、ある程度深く関わっている人にはそうすると良いのかなと思う。
そんな考えを持った私が、先日友人と久しぶりに会って話した。友人3人で会って、話した。その時のある会話が、考えさせるものであったので、ブログにしておく。
友人AとBがいた。どちらも私の親友である。
まず、Aと私の間での議論である。
話の流れを単純化すると、Aは勤勉で努力家で純粋なやつである。将来独立をして、たくさんのカネを稼ぎたいと考えている。(言うまでもなく、この考え自体は何も悪いことではない。)
A:「将来、出来るだけ金を稼ぎたい。そのためには、犯罪とか倫理的におかしいこととかは除いて、他人のこととか考えずに、自分の利益だけ追及することを考えればよくない?」
私:「んー、一理あるけど、世の中三方良しの考え方が必要だと思うな―。愛が大事だよ。」
(単純に相手がどういう期待値の返答を求めているかが分からなかったので、意図的に抽象的な表現を使って返答してみた。とはいえ、私がこう考えていることには間違いない。)
A:「でも、自分の利益を追求することによって、それが結局他人のためになると思っているんだよね。ビジネスもなんだかんだ言って、相手のためとかいうけど、打算とかも必要だよね?」
私:「(アダムスミスっぽいことかな?) それはそうかもしれないね。でも、さっき犯罪とか倫理的にダメなことは除くっていったでしょ?その基準って何なの?」
A:「それは、法律とか契約じゃないかな?」
私:「そうだね。でも、やっぱそれじゃ倫理とかカバーできてなくない?だからこそ、それを包括するような基準が"愛"だと思うんだよね。いわゆる、三方良しだよね。例えば、いろんなビジネスで受発注があるけど、愛ををもつことが基準になるんじゃないかなーと考えているよ。」
(書き起こすと、相手からしたら急に何言ってるんだよ、怖いし、抽象的すぎるってなりそうな回答ですね。)
まず、議論はここでひと区切りになる。そして、今回取り上げたいのは、この次のフェーズの会話である。Bも会話に加わる。
Bは粗野だが人情に厚いやつで、議論とかは得意ではなく脈絡のないことを言うが、それがむしろ気持ちが伝わるので私は好きだ。
A:「ふーん、君(私)がそんな考え持つなんて、だいぶ変わったよなー。学生の頃とか、なんか自分の成長が第一優先で、周りの人達のこと見下していなかった?俺のことも。」
私:「うーん、たしかになー。当然、君のことは見下してないけど、そんな面もあったかもしれないなー。」
B:「Aのことを見下しているわけないじゃん。それは信用しろよ。(略)」
Bはここで、いかにこの3人が信頼しあっているかを話してくれる。(とても熱い男なので)。Aはこの時、論点がずれた感じがして、少しもどかしそうだったが、Aも私もありがたくBの話を聞いていた。
A:「わかったよ。でもさ、Bもちょっと前までは女のことばっか考えてて、ふらふらしてたのに、今は考えもしっかりして、すっかり人も変わっちゃったよね。」
Bは、特に言葉を返すわけではなく、笑いながら生ビールを飲んでいた。
以上のようなことがあった。長くて申し訳ない。(これ以外にも色々議論したので、ごく一部。)
とりあえず、自分の気持ちを伝えるために、その場で手を差し出し、固く握手し、あなたと友人であることが嬉しいし、私はあなたを信頼しているという旨のことを伝えた。
なんてクサくて暑苦しいコミュニケーションなんだと思うかもしれないけれど、私はこのような振る舞いは正しいかどうかはともかくとても意味がある事だと思っている。
自分が相手を信頼していることを、相手が分かっていたとしても、改めて口に出して伝える必要があると思っている。
特に、自分の愛情を受け入れてくれるだろうなと思えるような信頼出来る人には、躊躇いなく自分の本当の気持ちを伝える。
彼は、意見は違っても、私が信頼していることを十分に理解しているから、「ありがとう。もちろん、お前がそう考えているのを知っているからこそ、こうやって議論しているんだよ。」と言ってくれた。
素晴らしい関係である。THE 青春って感じだなあ。
さて、話を戻すと、この話をしながら、私が思ったのは、人ってそんな完全に変わるわけないよなーということだ。
彼が指摘していた学生の頃の私については、ちょうどこのブログに書かれているようなものだ。
当時は、常に自分の成長のために焦っていて、今あるコミュニティに属しているとダメになると考えていたような時期だった。(もしかしたら、Aは今このときの私と同じような心境なのかもしれない。)
とはいえ、それは一側面であって、今自分が考えているようなことの要素がまるでゼロだったということはない気がする。
(同様に指摘されていたBも、たしかに異性にだらしなくはあったが、ずっと愛情をもって人に接するやつだったし、深く洞察出来る人間である。ただ、人からそう見られないだけである。)
彼にとっての当時の私の人物像は、わかりやすくいうと、以前ブログでも取り上げた山月記のリチョウのような人物だと思っていたのだろう。
事実、その見方は完全に的外れとは言えないだろうけれども、あくまでもそういう要素があるかもしれないという話に過ぎない。人はそう単純ではない。人間は、いろんな要素の集合である。
やや話はずれるが、山月記という作品に対して、"あぁ、臆病な自尊心と、存在な羞恥心ね。あぁ、なりたくはないよね。"みたいな反応をしてしまう人とは考え方が違うなと思ってしまう。しつこいようだが、そんな単純じゃないだろうと思う。
さて、今回のこのやりとりは、人に自分のことを分かってもらうのは難しいなと改めて感じた出来事でした。
"世界を幸せにする方法"というタイトルとどんどん離れていった気がしますが、一旦この辺で。
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