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経験と事例

経験には価値がある。
どんな知識も、実際に体験して習得した経験には敵わない。
ある対象を詳しく知るためには実際に経験してこそ一番深い理解になる。経験をすることで、対象を高い解像度で観察出来る。実際にやってみないと、その対象はもとより、それを取り囲む環境がどんなものか分からない。

【対象を理解すること = 対象そのものの知識 × 解像度】といったものだろうか。
例えば、"○○の経験"というのは、それそのものの普遍的なルールや原理・原則などの知識だけではなく、○○を進めるうえでどんなステークホルダーがいるのか、ある振る舞いや施策がどのような影響を及ぼしうるのかを生身を持って知っているということが大事である。知識に加えて、解像度が高いことが求められる。

だから、ある特定の経験を人に伝える時は、知識そのものを独立して伝えるのではなく、そのシチュエーションを視覚的に思い出すなどをして、知識とそれを取り囲む環境を織り交ぜながら伝える。
ただ、実際に経験したとしても、"解像度"、そして、"言語化能力"は当然人によって異なるため、以下のような関係性になる。

【対象 > 体験した人自身の理解 > 他人に伝えるときのアウトプット】 という関係が成り立つだろう。
体験を人に伝える時、そのアウトプットは、【対象の知識】 × 【解像度の度合い】×【言語化能力】の3つを主な要素として構成される。
例えば、対象が100であるとして、そのすべてを理解出来る人はめったにいないし、仮に体験した人がその50を理解しているとして、人に話す場合のそのアウトプットは、そのまた半分の25ぐらいという具合になるだろう。(※そもそも実務では対象のすべてを理解する必要がある場合なんてほぼないだろう。)

さて、ここで気になるのは、実際に体験していない人、あるいは聞き手は以下のどこに位置するかという話である。
【対象 > 体験した人自身の理解 > 他人に伝えるときのアウトプット】
論理的に考えると、対象→対象を理解する人→言語化してアウトプットする、というそれぞれのステップで、常に歩留まりは100%以下になるはずなので、こうなるはずだ。
【対象 > 体験した人自身の理解 > 他人に伝えるときのアウトプット>聞き手の理解】
こうなるのが普通で、聞き手が話し手から話を聞くときは、基本的に自分が聞くはずなので、対象の100分の1だろうが聞きたいことを聞ければいいのである。

しかしながら、たまに、こうならないケースもある。
例えば、優秀な経営者や天才と呼ばれる人は、自分で体験しなくても、他人からの話を聞いて、少なくとも話し手よりも、対象の本質を理解する。つまりはこうである。
【対象 > 聞き手の理解 > 体験した人自身の理解 > 他人に伝えるときのアウトプット】

その聞き手は何が優れているのかといえば、"想像力"であろう。
聞き手は、話を聞いて、既存の知識を軸に、その対象を取り囲む環境を創造出来てしまうのだ。
そして、これは必ずしも天才にだけ起こりうる現象ではなく、聞き手が、その対象あるいはそれと関連するドメイン知識があれば、容易に本質が想像出来るだろう。
ただ、そもそもその既存の知識も、他の分野において、自分で手を動かして経験して得た知識であることがほとんどだろう。それなしで想像出来たのであれば、間違いなく天才だ。

実際にそのビジネスを経験していないのにも関わらず戦略コンサルタントがクライアント企業のためにビジネスのコンサルティングを出来るのは、"解像度"と"言語化能力"をもとに、対象をクライアント企業よりも理解することが出来るため、付加価値を提供できるのだろう。(私は戦略コンサルタントではないのでこのあたりの具体的なところはよくわからないが。)

とりわけ、その業界における実績が多いため深いドメイン知識があるコンサルタントや、その業界出身のコンサルタントなどはまさに解像度の方で深い知識を持っているのであればなおさらだ。

とはいえ、一言に解像度とはいえど、色々分けられるため、優れたコンサルタントであっても、常に"コンサルタントの解像度 > クライアント側の解像度"が成り立つわけではない。そんなものが常に成り立つのであれば、コンサルタント自身がビジネスをするべきである。

あくまでも、ビジネスモデルやバリューチェーンの解像度であったり、企業経営の特定の分野(かつ業績向上などの目的に対してクリティカルな部分)での解像度と言語化能力が秀でている。

一応、書きたかった話はこれで終わりで、順番が前後して申し訳ないが、この話が思い浮かんだきっかけについて最後に書きたい。

ある領域について外部パートナーに協力してもらったことがあった。
そして、分からないことがあるときに、そのパートナーに聞いていたのだが、その対象の知識を知りたいというだけではなく、特に明確な答えがないものに対して質問することがあった。その時は、彼自身の肌感覚ベースでコメントをもらうことが多かった。
これは、先の話でいう解像度に価値を見出していたことになる。
そして、私は、"彼(パートナー)の経験に頼ることがたびたびあるが、経験≒事例を知っているという事に言い換えが出来るのでは?"と思った。その理屈から私自身もnotionに特定の領域の事例などをデータベースとしてためていた。
しかし、これまで議論してきたように、これらの事例は部分的には有益かもしれないが、私の想像力が伴わなければ、あまり意味をなさない。
いわば、データベースを蓄積するだけの勉強のための勉強になってしまっている。少なくとも、実務に耐えうるものではないだろう。

ないよりもあった方がいいと思うが、事例をただ溜めることに注力しすぎたり、実務のマネゴトのような形で公開したりして、アプトプットした気になるのは危険だなと思ったことがこのブログのきっかけでした。

補足:このブログは、以前書いた"最も効率的な情報収集方法"を少し拡張したブログという位置づけになるでしょう。

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