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ゾーンに入る

私は基本自分自身に懐疑的である。自分の思いつきや、知識をあまり信用していない。正確に言えば、常に不十分だと思っている。
ポジティブな言い方をすれば、改善意識があると言えるし、そうでなければ、自信がない、軸がないと言えよう。
だからこそ、例えば、何かの問題が見つかったら、自分の考えで解決するのは悪手だと反射的に思うため、すぐに外部・他人の知恵(専門の知識)を借りたい。

本ブログでも、ベストプラクティスや、他人に聞くなど自分以外に知識を求めることは何度か書いた。
そして、私は誰かと何か議論したり、時に言い争いをしていると、すぐにあれ、これは私の方が間違っているのではないか?という考えが心の底で発生し、相手の言い分を一旦受け入れてしまうケースが多い気がする。

これはプライベートでは特に顕著である。
というのも、ビジネスは多かれ少なかれ、客観性を持って正しい/正しくないということが判断できる一方で、プライベートでは、性格などパーソナリティの面が影響することが比較的多く、正しい/正しくないというよりも、多数派かどうかというほうが重視される。

ご存知の通り、私は間違いなくひねくれている。つまり少数派だ。(こんな人間が多数派になったら、世の中は大変なことになりそうだ。)
そして大体多数派の言っていることが正しいと思っている。文字通りの正しさというより、望ましさというニュアンスの方が近い。

さて、昔、ある悲しい出来事があった。
その時も、相手の言い分を受け入れたのだが、そのあと、1人で考え事をしているときに、私はついにこう思った。
"もし、私が正しいとしたら?"
振り返って、この時の感覚は私にとって、ひとつのブレイクスルーだったように思える。

これは自分に懐疑的であることをやめる、という話ではなく、いつも多数派が正しいと思っていたけど、そうではないかもしれないなぁということだ。
それまで相手が一旦正しいと仮定して、そのあと、自分の論理を考えるということをしていた。
一方でその時は、始点が、"相手が正しいとする。だから、〇〇〇"ではなく、"自分の考えが正しいとする。だから、〇〇〇"という論理を持った。

別に大きな違いではないが、結局どっちが正しいかは分からないので、ここでは、なぜあの時そう思ったのかという点に着目したい。

そして、ポイントは、なぜあの時なのか、ということだ。
その時だけは、確信持って"私の感覚の方が正しい。"と思える何かがあった。
それは"日々、私の方が相手(多数派)よりも正しいことを積み重ねてきたこと"だったと思う。要は、それまでの日々の自分の行動だった。

例えると、毎日積み木を出来るだけ高く積み上げる遊びをしているとする。そして、私がAくんより2倍高く積み上げられるようになったとしよう。
すると、A君は、"君の積み上げ方は間違っている。私より積み上げたとしてもそんなやり方は正しくないよ"と言ったとする。
でも、私は"いや、私はこれまでこの積み重ね方でここまで積み重ねてきたから間違っていないよ。"と自信を持って言い返すことが出来るだろう。

これをちょっと展開すると、スポーツなどでよく使われる"ゾーンに入る"という言い回しが意味するものに似ているかもしれない。
ゾーンは、スポーツの試合中に、失敗する気がしなかったり、相手の動きがスローモーションに見えたりするような感覚だ。
下手っぴのプレイヤーが試合中に急にゾーンに入って上手くなる、というニュアンスで使われることはほぼない。"ゾーンに入る"は、急激な成長ではない。
それまでの技術研鑽の積み重ねの正しさに対する自信に身体の感覚が一致したことではないかと思う。
これは単なるポジティブ思考ではない。いざ自信を持とうと思っても、そう簡単には感覚が追いつかない。

なんらかの状況下で、感覚が自分を全肯定するような領域に達して、思考に追いつきゾーンに入るのだ。
したがって、私はあの時ゾーンに入っていたのではないかと思う。

月並みだけれども、日々の正しい積み重ねほど自分を肯定してくれるものはない。
そして何よりも、"もし、私が正しいとしたら?"という問いから始まる想像は、ずっと遠くに行ける。

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