ちょっと大げさで、感情的な話を書こうと思う。
自分の価値観がいかに無意識にバイアスで変容していくかって話。
周囲のバイアスに対して自信もって、「これでいく、惑わされない」という"強い意識"で抗うのって難しいなと感じる。
日々仕事をしたり、プライベートで色んな人と話すと色んな考えが頭の中をよぎる。
バイアスの積み重ねである。
例えば、このブログを読むと読まないのでは、バイアスが多かれ少なかれ発生する。ゼロではない。
バイアスという言葉を用いているけど、一般的に想起される「無意識な差別的な思い込み」という意味の表現よりも「もっと大きなくくりの思考プロセス」の意味合い。
当然、もちろんポジティブな考えも含まれるし、思考プロセスだけではなく、感受性など情緒的な側面も含まれる。
自分の大切にしている価値観があるとして、それは生まれ育ってきたものでおおよそ形作られるかもしれないが、それは常に変容するに違いない。
「成人までに得た常識がそのあとの人生の根底となる」みたいな言説は大方間違ってないかもしれないが、そんな簡単なものでもないだろうと思う。
ちょっと回りくどい書き方をしてしまったが、こういうのも、日々感じていることをブログに起こそうと書き始めた結果、何かをイメージした結果こんな文章が出力される。
これを読んでいる人は、よくわからないけど、何が言いたいの?となるはず。
でもちょっと待ってほしい。特に言いたいことはないのだ。
今この文章を書いている今も何かを言いたくて書き始めたわけではないのだ。
けれど、自分の大切にしたい価値観があるとすれば、それに当てはまらないものに対してNoというのはポジティブに解釈すると"勇気"でもあって、ネガティブな解釈をすると"拒絶"でもある。
もちろん個別具体的なケースで一概に両方があてはまるわけではない。
自分に当てはまらない価値観に対して、Noというのは、おおかた勇気の意味合いで解釈され、賞賛される考え方でもある。
それは、よく成功者がスピーチなどでいったり、自己啓発本とかでも繰り返し言われているような「自分の意思を大事にして、誘惑に惑わされてはいけない」的な勇気。
一方で、その考え方を正しいと思っている人への拒絶。多様性への受容などがそれに上げられる。
どちらも尊重すると、どんどん決められなくなってくる。行動できなくなっていくから、日々バイアスの中で取捨選択的に行動する。
ちなみに、この主張(主張というほど偉そうなものでもないが)、「いや、じゃあたとえば、○○みたいなケースならその主張は間違っている」と容易に指摘されるぐらいにはこのロジックは脆弱でもある。
けれど、最近ずっと感じているのは、こういう思考は○○さんに言われた言葉に影響されているな、とか過去の体験に影響されているなとか思うようになってきた。
それが正論だとしても、自分が本来あるべきだと考えている状態や、自分の方向性と合わないときに窮屈に感じる。
これに関連する話かどうか分からないのだが、最近とある知人の起業家が、成功している起業家に会いに行って、「今挑戦すべきビジネスってなんだと思いますか?」と聞いて、聞いた話が腑に落ちたらしく、それをもとにビジネスを立ち上げて、そこにフルコミットするという話を聞いた。
「成功している人の真似をする」、「未熟なうちは黙って自分より成功している人が言っていることに従う」というバイアスに良くも悪くも影響されていると感じた。
繰り返し言うように、これは"良くも悪く" というのがミソであって、そのバイアスの蓋然性は一旦置いておく。
その人の話を聞いている最中は、「おおー、良い話が聞けて、そしてやるべきことが見つかって本当によかったね。」と純粋に心の底から応援したい気持ちで終わった。
でも、そのあと話をきいて一人で散歩しているときに、
「あれ、でも、自分がやるべきことを自分の頭で考えて、決めることが一番楽しいことなんじゃないの?」
「あぁ、でもその結論までの情報収集の段階で誰かに聞くというのは正しいし、成功した人に聞いたから自分の頭で決めているか」
とも思って、納得したのだけれど、「自分の頭で決めること」と「決めないこと」ってなんだっけ?ということをふと思ったのだ。
思い立ってこの文章を書き始めた。
書いているうちに頭の状態が良くなってきた。
バイアスに影響されたうえの文章なわけだけれども、バイアスから離れている感覚がある。
なんか自分の頭で考えてる感覚がある。
さっきのその知人の起業家の話も書いてみると、たしかにこんなバイアスがあるなとあらためて"分かった"。
(※ "分かった" にダブルクオーテーションをつけたのは、なぜかこの"分かった"という言いまわしが特別に感じたから。なぜだろう。)
日々こんな感じで、あこれは、バイアスだなと思えたものを文字にしてみようかな。バイアス辞典を作ってみようかな。
例えば、他にもいくつか今思い出したものを書く。
先日 iPad Proが壊れて、Appleの店舗に修理に行った。
スタッフに、「iPad Proの主な利用用途はなんですか?」と聞かれたので、「Kindleで本読むことですかね?」と回答すると、「それでiPad Proなんですか!?珍しい」と利用用途に対して、オーバースペックであることをほのめかされた。
厭味ったらしい言い方でもなかったし、私も特に不快感を感じたわけでもない。
そもそも、「Kindleで本を読むために iPad proを買おう」と思ったわけでないが、本来はデジタルで絵を描いたり、3Dで何かを作ってみたかった。
ソフトの重さなども踏まえて必要になってくるかもと、なんとなくiPad Proを買った。
実際にたまに超へたっぴだけど、デジタルで絵を描いている。
仮に利用用途で、デジタルで絵を描いているといった時に、「え!絵描いているんですね!どんな絵ですか?」みたいな反応が来ることが恥ずかしかったかもしれない。下手だし。
この話のバイアスとしては、「Kindleを読むためにiPad Proを買うのはオーバースペック」というのは事実であり、バイアスではないかも。
でも、「読書のためにiPad Proを買う人」というのが意識的にあまりいなかったから驚いたはずなので、そこはバイアスに思える。
翻って、私も「下手なのに、人に絵を描いているというのは恥ずかしい」という考え方もバイアスである。
先日、趣味はなんですか?と聞かれて、同じく絵を描くというのは恥ずかしいから、別のことを言った。
こんな感じて、日々自分の思考や発言にどんなバイアスが埋め込まれているかを文字化して観察していくことはなんか新しい発見がある。
これを続けていくと、「バイアスから離れて考える」ということが出来そうだな。
以上。 一旦終わり。
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