結論を出さなくていいこと

世の中、そんなに結論を出すべきことってないんじゃないか、とよく考える。

問題を提起して「こうすべき」と提言する。
何か問題が起こったときに、すぐに原因を特定したり、誰かの責任にする。

それってそもそも必要なんだっけ。

もちろん、取り急ぎ結論を出してアクションを起こさないと現状は変わらない。
その重要性は理解している。

「ストーリーとして成立すること」が求められすぎてはいないか、という話を書いている。

「地面師」を最近ようやく観たのだけれど、面白いのは面白かったけれど、随所に違和感があった。

たとえば、池田エライザが演じている刑事の登場人物。この役割が本当に必要か?と感じた。
(※ 池田エライザが悪いわけではなく、その役割自体が不要に思えたという話)

「花形部署に行きたいけれど、地味な部署にやや不満がある”若者らしい”熱血刑事。
しかし地面師事件に関わりつつやりがいを感じているところを、ペア刑事が死んでしまう。
事件の本質に近づくにつれて、主役の綾野剛に「このままでいいのか」と問いかけるみたいな、ざっくりいうとそんな流れがあってこの役割は邪魔に思えた。

結末も謎の空間で、派手な肉弾戦が行われる。
描きたい表現において必須だったから入れたのだろうけど、少なくとも事実の不動産取引事件をベースにしたフィクションなのだから、そこの人間ドラマいるかな。

ストーリーとして美しすぎないか。
ストーリーとして美しいものを作らないといけないというのは、結論が美しいという意味合いではなく、ストーリーとして起承転結がある必要があるという話。

テレビタレント/インフルエンサーなどは、企業の広告費をもとでに制作された番組などで成り立っているわけで、「分かりやすく」「コンプライアンス固めて悪評を防ぐ」という流れになるのは力学としては理解している。

ネトフリでもそうなのか。

最近読んだ小説でも同じく、なんか無理して辻褄を合わせるような描写や結末が多くて「うーん」となった。

ストーリーとして美しいものをつくる、抽象的に敷衍すると、世の中、結論を出して成立させる必要ってあることってそんなに多くないはずなんだけれど。

大学2年生の時にとある大企業の2週間ぐらいのサマーインターンシップみたいなのに応募したときに、私含め3名ぐらいの学生でグループディスカッションみたいなのを組まされて、今までの人生をライフチャートで示して話すみたいなことをやった。

そのなかでとある学生が、「学生時代に降りかかった悲しい事件を乗り越えたエピソード」を取り上げて話していた。その瞬間に「あ、おれはもう選ばれないな」と感じた。
その学生の結果はどうなったかわからないが、少なくとも私は選ばれなかった。

もちろんその状況で努力したという経験は大事という話と、それに対して私の当時のやってきた実績なんて何もなかったから私のポンコツさによって選ばれなかっただけだろうと思う。

ただ、美しいストーリーを持ってた瞬間に勝つゲームという側面もゼロではなかったはず。(所詮、エピソードの有無というより、いかにそれっぽく話すかという点のほうが比重が高かったと思うが。)

直近で言うと、選挙があって、いろんな社会問題が提起される。
個人および民間が取り組めない規模の問題もたくさんあるから、それは政治で取り組むべき課題だろう。

しかし、まぁ大半は提言されたり、煽られたりするだけで解消は難しいだろうな。

媒体が”ジャーナリズム精神”で提言することを目的にしてしまっているようなものは見ていて疲れるだけ。
世界の広告コンテストで優勝するために作られたようなCMのようだ。
喜ぶのは、それを実績・ポートフォリオとして活用できるクリエイティブディレクターと所属している会社だけ。

いくつか話が飛び散ってまとまってないけど、まぁ、言いたかったこととしては、以下のようなもの。
誰であろうが、誰かの状況に思いをはせて、理解しようとする姿勢を持とうとする姿勢、それを解決しようとアクションすることは非常に大事で素晴らしい。しかし、そうすべきものって、とても少ないはず。
少なくとも、とりあえず結論を出して、誰かのせいにしたり、誰かの行動を是正しようと感情を発散することで得られることってないよねという話。
それについてはそもそも考えない。スタンスを持たないも全然OKだろう。

p.s.
最近、頭の状態がよくない。
でもその状態でも文章を書いたり、アウトプットすること自体が大事なんだろうなという結論を出しておこう。

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