とある漫画に関する考察を書いたnoteを見かけた。その時に読んだ内容についてまとめた話である。
批判したいわけではないから詳細は伏せるとして、たとえば主人公はこのときなぜこういう態度をとったか、それは○○という心情を意図的に隠しているからだ! みたいな、といったような考察だ。
それは視点として一定の面白さがあったものの、物語には明記されていない勝手な解釈に思えた(そもそも考察はそういうもの)。つまり詭弁ではないか? とChatGPTに聞きながら分析をした。
結果として、「仮説が前提を超えている」「意図の隠蔽に過剰な意味付けをしている」「推論に飛躍がある」などの理由をもとに詭弁であるとしたらこうだという理由を列挙してくれた。前提がないと意味不明だと思うので、ここではそのアウトプットについては補足しないが、ChatGPTくんはこういう客観的な言語化のアウトプットおよびその言い回しはかなり優れているように思える。
「あーうん、そうそんな感じの言い回しだと納得しやすい! 言いたいこと言ってくれた!」とまさに、となるような表現を使ってくれる。
ここでポイントは、詭弁なのはわかったが、なぜそれが面白いと感じるのか、ということを考えてみたいと思った。
アレルギー的に詭弁自体をダメなものとして排除する必要は特にないと感じたが、そもそも詭弁自体が何かわかっていない。(なのに、noteを読んだ時に、詭弁じゃないか? と思ってしまうのもなぜだろう。)
事実、私はそれを読んだ時に「面白いな、その解釈もあるかもしれないな」と感じたのだ。
詭弁ぽいなというツッコミはあれど、ネガティブには受け取らなかった。
そこで詭弁について書かれていた『論より詭弁~反論的思考のすすめ~』という本を読んだ。
頭の中で"詭弁"と検索したときに、Kindleにはそんな本があったことを思い出した。途中まで読んだのかもしれないが内容を忘れたので振り返るきっかけとして再度読んだ。
本書は、いわゆる学問的な論理学の話ではなく、むしろ「論理学的な正しさ」に疑念を投げかけているものであり、ビジネス書によくある「論理的思考の方法」に真っ向から反論する面白い本だ。
ページは厚くないものの内容量はぎっしり詰まっているので読みごたえがある本。
何か『ブラックスワン』の著者・ナシーム・ニコラス・タレブに似たユーモアのある皮肉を想起させる文体。
まぁ、内容はさておき、本書の主張していることは文字通り様々あって痛快なことばかりなのだけれど、「そもそも論理的な正しさって重要視されるべきか」という疑問であり、それは論理的な正しさを軽視しているというよりも、SNSでよくあるような「論理で殴るバカ」などを想定しているような疑問である。
ほかにも、「論点のすりかえは別に問題ない」みたいな面白い主張がたくさんあるので、興味がある人は読んでみてほしい。
本書を読んだうえで先の問いに戻れば、「面白ければ別に論理的に正しくなくてもいいじゃないの」という話である。
あえて、それに対して賛成するか、反対するかは個人の感覚によるが、それを考えること自体が面白い。
言葉遊びであっても、その言葉遊びも楽しいし、作中に明記されなかったとしても、解釈の可能性を考えるだけで楽しい。
そこに正しさかどうかの検証が入ると冷めてしまう。もちろんいわゆる論理的正しさにのっとった楽しみ方も楽しいので、そうではない楽しさこそが本当の楽しさだというつもりはない(ここは大事なポイントな気がする)。
ちょっと頭がこんがらがってきたし、この先の文章も書いていたが、何が詭弁で何がそうではないかもよくわからなくなってきたので、あらためて詭弁も楽しめると思えたという話で今日は終わる。
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