私は、とんかつやチキンカツなどにソースをかけずに食べることが多い。
とんかつだけではなく、出来合いの料理に、何か調味料を加えることは基本しない。つまり、「味変」はあまりしない。

デフォルトの状態が好きということが多い。

もちろん、食事に関しては、そもそも食べることにあまり幸福を感じるタイプではないからというのが大きい。Google Chromeの拡張機能はたくさんいれたりするから、すべてのものがデフォルトが好きというわけではない。

でも、平均よりもデフォルトですべてやってしまうことが多い。

おそらく何らかの自分の意思決定によるアクションが介在することで、マイナスになってしまうリスクが怖いのだと思う。

であれば、明らかに効率が良くなることが分かっているもの、そして、可塑性が高いもの以外はデフォルトでやってしまう。

味変だけではなく、マックにいっても、いつも同じメニューだし、新しいお店ではなく、言ったことがある店が好き。
期間限定の新メニューではなく、いつも頼んでいるメニューを頼む。

失敗したときのリスクを許容するぐらいなら、想像範囲内の合格点が保証されているものを好む。

そんな私だが、先日、行きつけの美容室に行った。

3年ぐらい同じ人に切ってもらっている。
その人に、いつも「今日はこんな感じで」と伝えて、切ってもらう。
仕上がって、こんな感じでいいですか?と言われたらOKを出す。

でも今回は、行く前に、いつも微妙な感じになる箇所があったので、「もうちょっとここの部分を切ってほしいです」と伝えてみた。もちろん、快く切ってくれる。

仕上がりは、理想通りだった。大満足。
もちろん、理想のリクエストをしたのだから、それ通りにやったら満足するのは当たり前である。
美容師も、客の頭の中の理想を読み取れるわけではないので、客から言わなければわからない。

そもそもいつも、自分の理想というものがそこまでなかったので、別に追加リクエストなくても、いつも満足していた。

別の話で、今たまに知人からクリエイティブ関連のことを習っている。
レクチャーしてもらっているのだが、「ここはどうしたいですか?」と聞かれる。
単純な作業手順ではなく、好みがわかれる点だからだ。

その時、いつも戸惑ってしまう。どう答えようか迷う。

客観的にこうしたほうが良さそうという基準がないため、「こうしたいです!」という主観的な基準に基づく意思決定が必要である。
それがない。

クリエイティブ/アート関連でいつも思い出す過去の出来事がある。

小学生の頃、木製の箱に絵の具や、彫刻刀で自由に彩色したり、掘ったりして"自由に"モノを作る。

当時は、風邪をひいて欠席したかなんかで、進捗が遅く、後日ほかの何名か進捗が遅れている子と数名で居残りで仕上げた。
居残りでも楽しんでやっていた記憶がある。

自分なりにこんな模様も書いてみたら楽しいな、と思いながら文字通り自由にやっていた。

完成後、学年全員の作品が体育館に並べられていた。

そのたくさんの作品のなかでの自分の作品をみたときに、あまりにも自分の作品が統一感のない、チグハグな出来になっていて、かなりショックだったことは覚えている。

誰かに馬鹿にされたりすることはなかったが、自分のこういう類のアートセンスというか「才能のなさ」みたいなものに初めて直面した感じの出来事だった。
昔から、漫画で見た武器を段ボールでつくったり、ピタゴラスイッチみたいな装置を家で作ったりするのを楽しんでいたし、漫画も描いていて、自分はこういう作業が好きなんだと思っていたが、その図工の完成品を体育館でほかの作品と並べて見たときにあまりにも恥ずかしいという感情になった。
展示が終わった後、完成品を家に持ち帰ったが、制作中あんなに楽しんでいたものに対して、愛情はこめられず、まもなく処分されたような記憶だ。

ここまでの出来事を振り返って、自分の趣味趣向を自分の基準にしたがって表現しても、必ずしも満足した結果にはならない。
それは、当然センスもあれば、技術不足もあるし、表現能力の巧拙もある。

そして、大人になるにつれ、受験や仕事などは基本的に最もらしい客観的な数字が存在してくれる。

その客観的指標をもとに、良いか悪いかを判断できる。

成果物に関しても、たとえば、広告を作る際にも、ABテストで生き残った者が正しいし、基本その基準に従うが、パフォーマンスが出るかどうかまだわからない入稿時点のクリエイティブでも、「自分がいいと思ったから」ではなく、「他社の事例」や「世の中のあらゆるクリエイティブ」と比較しても遜色がないかどうかという基準で無意識にみていることが多い。

(※ 私自身がマーケティングが専門だからなおさらそうだと思うが、「作ったものに共感してもらう」は悪手で、「売れるものを作る」のがセオリーだ。)

それを作る技術に関しては、基本的に、最低限の制作技術(ツールの使い方など)とディレクション能力があればセンスなんてほぼいらないと、私も実際にやってみて思う。
フォントやテクスチャーや配色などいくつかの変数をチューニングすれば、70点ぐらいのものは出来上がる。

でも、そこには、ほとんど自分の主観の判断基準は存在しないし、明確ではなくても、客観的な指標に意識的にも無意識にも従っている。

だから、自分の髪を切る、自分でモノを作る、誰に売ったり/あげたり/見せたりするものではないものを作るとき、自分の価値基準を求められたときに、分からなくなる。

自分の「好き」が分からなくなるような感覚に陥る。
「こうしたい」も、「自分が好きだからこうしたい」ではなく、「こうしたほうが客観的に不自然ではなさそう」という判断基準に従っているときもある。
主観・客観の基準のブレンドで、客観の比率が高いような感じ。

もちろん、自分の判断なんて、すべて今までの経験に影響されているから、すべてが100%主観的な判断はありえない、というのは当たり前だ。
ただ、そのなかでも、その自分の趣味嗜好に基づいた判断が出来ていないことが増えていくような感覚になる。

いまやSNSが主流になると、自分の趣味・趣向なんてものは容易に揺るがされるし、否定される。
おもしろい小説も、読む前にレビューを確認するし、読んだ後もみんなの反応を見たくなる。
好きだと思えた作品に対して、とあるレビューが「作品の矛盾」などの欠陥に触れていた場合に、好きな気持ちは変わらないながらも、なんか心にひっかかった気持ちになる。

情報を遮断すると、新しい出会いにもうまれにくく、自分の趣味嗜好にのって、本屋でこれだ!と選んだ本の内容が合わないと、おすすめされたものを読むよりも圧倒的にコスパが悪いような感覚にもなる。
これはやはりおかしい。

自分が「好き」だと思う頭の中で作ることが少なくなっていて、ぼやけすぎて、意思決定の基準として頼るには心もとないような感覚になる。

その価値基準が基本的に、じっくり時間をかけて理想像をきめて、自分で選んで成功したり失敗したりすることでしかその輪郭は見えてこないのは間違いないが、それに時間をかけていられなくなってしまう。

「好き」の輪郭を形成する手間を最小化するためにテクノロジーは非常に役立つ。
AIによって、自分の趣味趣向を学習させて作った「好き」の輪郭は自分の手間をかけて作った輪郭と遜色がないものになるだろう。
じゃあ、その違いは何だろう。手間をかけて得たものは、輪郭だけなのか、その過程で得た経験こそすばらしいというざっくりとした気づきだけでは腑に落ちない。
そもそも目的は、テクノロジーを否定することではない。かといって、テクノロジーですべてリプレイスされるというのも、経験的にも違うように思える。

もうこのブログも終わるけど、ぱっと思いつくのは、自分で発見したという物語があると、そのあとの愛情も大きいということ、つまり好きになり続けられることはありそうだ。

私は、よく聞いている曲も、最近知ったものも大きいが、基本的に昔TSUTAYAにレンタルCDを借りて、苦労してItunesやウォークマンに入れて、繰り返し聞いていた曲ばかり思い入れがあり、AIに「君が好きなのコレだよね!」と言われたものも「そうそれ!」となるものが多いが、やはり愛情の入れ具合は前者が大きいようにも思える。
もちろん、どう意味づけするか(愛情をどうもてるか)は、そのあとの自分の努力でどうにでもなるから、知ったものにどう愛情を込めるかを自分で試行錯誤すればいい。(AI、もといテクノロジーが害なわけではない)

以上。

(P.S. 今回書いたことは、よくこのブログにも書いているような題材だと思うが、それを同じようなことを書いているからコスパ悪い・思考が進展していない気がするとも思う感覚も似たようなものだろうか。
そしてまた、このブログを書き終わって、生成AIに感想を聞くと、とてもおもしろい答えが返ってくる。これはほぼ間違いなく、人間に聞くよりも洞察的で、構造化されているし、気づきも多い。でも、人にもらった感想はまた違う嬉しさがあると思うから、それもまた考える価値がある。)

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