他己評価の勘違い

「上司に厳しく指導された」というケースがあったとしよう。自分の実力不足を指摘されるような種類のものとする。

そういうとき、自分を奮起して頑張って、いつかその人に認めてもらうために頑張るぞ!と自分を奮起するのはよくあるストーリーだろう。
とても素直な反応だと思うし、私も例に漏れず、手厳しく指導いただいて、自分を奮い立たせる経験はたくさんしてきた。振り返ると往々にしてありがたい成長の機会になったことが多い。
(あきらかに理不尽なこと言っていたり、そもそも関係性が深くない人からネガティブなことを言われても腹立つだけで終わるから、そもそもこういう気持ちになるには一定リスペクトがあったり、関係性がないと起こりえない。)

最近、そういった経験をしてきた中で指導してくれた方をぼんやりと思い出していた。
そのなかで、「大きな勘違いをしていたのではないか」ということに気づいたので、それがトピックである。

繰り返しになるが、当時はこの人に認めてもらえるように頑張ろうと自分なりに意識していたし、なんとかいろいろ頑張った結果少しばかりは貢献できたとは思う。
でも、結局そのあと私がその組織を抜けたため、見返すまでには達しなかったような気がする。

そして、大きな勘違いについてだが、結局その人に認めてもらう努力というのは手段の多くが限られたまま行われてしまうのではないかということだ。
「この人に認めてもらうよう頑張るぞ!」と思うと、「(自分が想像する) その人の軸で物事を頑張ろうとしてしまう」。

本来は、最終的に大きな成果を残しさえすれば、その上司は手段問わず認めてくれるのにもかかわらず、その人が認めそうなルートを選んだり、その人に認めてもらいやすそうな成果や手段などに無意識的に選択肢を限定してしまうことがあるのではないか。
その人の目を気にして視界が狭い状態で努力する怖さがある。

結果的にそれが成功して、その人に認めてもらったとしても、満足感は一時的なものになるはずだ。
どんな人も他己評価だけに100%依存しつづけるのは苦しいだろうし、それが特定もしくは少数の人に認めてもらうというのであればなおさら非現実的でない。
逆に、うまくいかなかったときに、「あんなにあの人に認めてもらおうと頑張ったのに」などと負け惜しみをいっても見苦しいだけである。

誰かに認めてもらうために頑張ろう、というのは謙虚で素直な目標であるが、言ってしまえばそれまでである。
結果的に、自分が満足する軸で成長しないと、極端に言えば振り返ったときに結局成長したけど、幸せになったわけではない、時間の無駄だった、無駄に疲弊したとなってしまえば非常にもったいないし、そもそも他人軸で努力することで手段が制限されてしまい、成長の幅自体も小さくなる恐れもある。

難しいのは、他人の軸で努力するほうが、キャリア初期は特に汎用的に使えるような力が手っ取り習得できるため、他人の軸で努力することが必ずしも間違いというわけではないということだ。
注意したいのは、その他人軸の価値観と自分軸の価値観の区別がつかなくなってきて、いつの間にか他人軸でしか頑張れないような視野の狭い状態で努力するといつまでたっても苦しいままだということである。

先ほどの私の例でも、当時の私よりも今のほうが確実に成長しているが、当時の環境のままだったらここまで成長していないといえる。
あえて言うと、その上司をいまでも尊敬しているし、認めてもらえたらうれしいなという気持ちはあるが、その人の価値観で頑張ろうという気は当たり前だがもうない。
また、その上司もその当時の私を見て、「何をそんな縮こまってるんだ、結果さえ出せばいいんだから、もっと自由にやれよ」ともどかしかったのではないかとすら思っている。
これが当時気づくべきだった「大きな勘違い」である。

以上

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