あと何分かなぁ

私がいる業界は比較的若い人が多いため、仕事で生成AIを使わない人はほぼいない。

ドキュメントの制作や、ワイヤーフレームなどの制作物のドラフトを依頼することがあるが、生成AIのアウトプットそのままみたいなものを送られることがある。

生成AIを使うことは全く問題ないのだが、生成AIに軸足が乗っているので、修正しようがない。まぁ見た瞬間に、以後その人に以後仕事を依頼することはなくなるわけだが、今後 彼ら / 彼女らが生成AIを使おうが使わなかろうが、最低限のドキュメント作成能力を身に着けることは生涯ないだろう。

アウトプットの品質を上げる唯一の方法があるとすれば、そのアウトプットを踏まえて、何をどう変えるべきかという詳細なフィードバックをするぐらいだけど、皮肉ながらその指示をそのまま生成AIに依頼したほうが速いし、コストも安いし、品質も高い。

原理原則としてのライティング能力や、ロジカルシンキングみたいなものはどんな時代になっても必要不可欠に感じる。

新卒1年目が読むべきビジネス本に書いてあるような話である。
それらができたとしても仕事でハイパフォーマンスを出せるわけではないが、それらを身に着けるべき時期に身に着けてない人が、この種のドキュメントや制作物において一定以上の品質を出すのは難しいだろうなと思う。

断っておくと、これらの業務は世の中のあらゆる仕事のうちの、ホワイトワーカーに分類される仕事のなかでも氷山の一角であって、これができなくても仕事としてもちろん成立することも多い。こんなものができなくとも、金を稼ぐことは出来るから、これができないからと言って仕事ができない、とか、ビジネスマンとして終わりというわけでは一切ないことは主張しておきたい。

ところで、先日とあるワークショップに行ってきた。
実際にモノを作り上げる形式のワークショップだった。
手芸のようなものを想像してほしい。

私以外は経験者ばかりで、瞬く間に完成イメージに向かって仕上げていく。

先生が全体を回りつつ1人ずつフィードバックをしていたが、私の番になったときは「う~ん...」と何から手を付けるべきかと明らかに困り果てていた。(※ ちなみに、先生は素晴らしい人格者で、人生の気づきになるような話をご自身の経験をもとにたくさんしてくれた。)

ほかの人たちは、どこをどう改善すべきかをイメージしながら黙々と時間を惜しみながら仕上げていっていたが、私は「何が分からないかわからない」という絶望的な状況で逆に時間を持てあましながら取り留めなく手を動かしていた。

似たような体験をした記憶を思い出した。昔、中学受験のために通っていた小学生の頃の話。

算数の「濃度」という単元 (ex: 食塩水の濃さ を調べるなどの問題 ) があって、私はどうしてもその単元が理解できず、居残りをさせられていたのだが、教科書を読み直しても全く解き方の検討がつかなかった。

当時は先生に質問に行くのも怖かったのだが、1度勇気をふり絞って質問に行ったがそれでも全く分からず、わかったふりして、再度机に戻った。
結果的に、何も分からないまま、2時間ほど考えているふりをして、下校時間になって解放されたわけだが、ずっと「あと何分かなぁ」と考えていたあのときの絶望的な手持ち無沙汰な状態と似ていた気がする。

さて、話を戻すと、周りはどんどん良い仕上がりになっていくなかで、私は悔しさすら抱くレベルですらなく、ほかにやることもないし、手を動かさないわけにもいかないので、ちょこちょこわからないながらも仕上げていった。

最終的には、先生のアドバイス (というか実際に手を加えて改善してくれた) のおかげで、参加者の平均レベルには遠く及ばないが、事前に想定していたものよりもいい出来になったのでよかった。

そのなかで、ひとつ大きな気づきがあった。

さきほど書いたように、とりあえず時間が有り余っている中で、方向性もよくわからないが手を加え続けるという作業、もっといえばとりあえず完成させるという作業。

身もだえするほど退屈で居心地が悪い作業だったのだが、同時にこんな感覚を最後に経験したのはいつだっただろうと内省すると、少なくともここ10年はなかったと思う。

それこそ、仕事をはじめたての頃の新卒、ないし大学生時代に経験したインターン時代の頃だっただろうか。とりあえず期限は決まっているし、上司も厳しい中で、とりあえず形になるものを作らないといけないが、目指すべき方向性すら皆目見当つかないという状態。

そのなかで、(怒られないために) なんとかそれっぽいものを作り上げて持っていて、あまりの出来の悪さに突き返されるみたいな経験だ。

ただ、10年も仕事をしていると、少なくとも全く関係ない分野でない限り、仮にやったことない業務でも、勘所がイメージできるし、自分ではできなくとも、他人に協力してもらう / うまいことフィードバックをもらうなども要領よく進められるようになる。

今や、生成AIがでてきたら、だいたい知らないことがあれば、それっぽいものを作り上げるというのができるようになる。時間をもて余すことなく、”コスパよく” 仕上げることができる。 (※ ビジネスの場合は、生成AIが普及する前からでも、知らない業務でもある程度デスクトップリサーチや書籍で補完できた。とはいえ、生成AIがドキュメント / 制作物の完成、つまり実行まで担ってくれるため、比べ物にならない “コスパの良さ”である。)

それらを踏まえて、先日の絶望的な時間のもて余す感覚は非常に新鮮だった。
「あぁ、何をやればいいかわからないなぁ。もし、ひとりだったら、絶対投げ捨てて、仕事したり、Youtubeみたりして、2度と触らないだろうなぁ」と思いながらも、せっかく来たかと思いつつ、手を動かして、最後まで完成させた。

もはや集中力などはずっとなかったが、たまーに、「あ、これいいかも・・・・あぁ、やっぱだめだ。またわかんなくなった」の繰り返し。でもまぁ、2時間前と比べたら、ちょっとましかもみたいな状態。

何よりも一定水準のものを試行錯誤して完成させたという経験が大きかった。とりあえずささっとダサくてもいいから完成させただけでは味わえない経験だったと思う。

どんな素晴らしいコンディションで開始したとしても、絶対にあの手持ち無沙汰な絶望的な時間を経るルートは通らなきゃいけなかったはずだ。

ちょうどこのワークショップに行くちょっと前ぐらいにブログを読んだ。

バックナンバーを全部読んでいるわけではないが、ブログを最初に読んで素晴らしい内容で感銘を受けた

※ ひさびさに新しい面白いブログを発掘出来てうれしい。こういう頭いい人の文章は私の人生に必要な栄養になるのでもっと欲しいね。

さて、作曲家の方のブログなのだが、創作には2種類あるという。

前者がフォロワー数などのKPIや誰に評価してもらったかなどの客観的評価を軸とするのに対して、後者は自分自身によるパーソナリティ理解の精度を軸とする。

つまり、先の話でいえば、どれだけ上手いものが作れているかというよりも、「手持ち沙汰だ」と感じているということを知覚することに価値を感じるというような具合である。

突き詰めれば、肩に力を入れて、創作するぞ!という姿勢じゃなくても、自分の内面を知覚できるのであれば創作という行為であり、必然的に創作物のハードルの下げても問題なしという主張だ。

素晴らしい主張だ。実際、私はその手持無沙汰になったときに、このブログを思い出して、内面に目を向けることで、「あと何分かな、帰りたいなぁ」という30歳を超えた大人にあるまじき思考から逃れることに役立った。正確に言えば、そういった思考をメタ認知することに役立った。

….ここまで一気に書いて、うまくまとめるための結論が分からなくなってきたのだが、せっかくブログを書くという「創作活動」をしているので、生成AIになげて良い感じの結論にまとめてくれ、というのは 「Create-for-Personality/C4P」の観点からはあまりにももったいない。

うまいこと前段の話を後段の話をつなげようとしている自分の感覚に向き合ってみよう。

なぜ悩んでいるかといえば、生成AIクソアウトプットの話と、ワークショップの絶望時間がよかったという話であれば、やっぱり生成AIに頼んだらこういう時間が持てなくなるから成長の機会ないよね、って話に単純につなげようとしたら単純すぎてつまらないなと思って、C4Pの話を思い出して書いたら、似ているようで違う話っぽくて接続点を見失っているんのだ。

まぁ、これ以上考えると、C4Pではなく、C4Qにこだわっていてよくないという理由にかこつけてここで終わり。

P.S. ブログも間隔が空きつつあるので、「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)」を無意識に意識しすぎているのかもしれないから、もっと内面の感覚に触れて、それをアウトプットするのにこのブログは最も適した場所なのだから、ハードル下げて取り組みたいと思った。
ただもうすでに「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)」の場を作れていて、不定期にでも更新できているという点で成功であり、ハードルさげて更新しなければならないと考えるのも矛盾する話ではあるのだが。

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